今日は、個人的なご報告を。
1月9日、14:40分。母が旅立ちました。
葬儀は、今週半ば、よく晴れた日。
家族と親戚、ごく近い彼女の音楽関係の皆様とだけで執り行わせて頂きました。
「手が震えるのよ」
そんなちいさな変化から、ここに至るまで約10年。
難病指定の病気だったとようやく判明したのは、半年前。
「進行性核上性麻痺」
https://www.hospital.japanpost.jp/tokyo/shinryo/shinnai/psp.html
10万人に1人の、パーキンソン病の1種。
徐々に身体の機能が奪われ、最後には呼吸と心臓がとまる病気。
このまま、そんなに遠くないうちに。そう宣告されていました。
その日、私はジムでトレーニングをしていて。
病院からの危篤の報に、慌ててコートを羽織って飛び出しました。
1ヶ月半前に移ったばかりの、長期療養型病院の病室。
まだ管はあちこちついていたけれど、機械はぜんぶとまっていて。
誰もいない空間に、彼女がひとり、眠るように横たわっていました。
「あの、これって、もう…ってことですか」
通りがかりの看護師さんに聞いたけれど、答えて貰えず。
先生が来られるまでの10分間、ふたりきりで過ごしました。
奇妙なカタチにぎゅっと固まったまま、常にビクビク跳ねていた手が、少おしだけ、緩んでいて。
ああ、もう痛くないんだね。よかったね。
10年ぶりに触れた手のひらには、まだ、あたたかさが残っていました。
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声優になる直前に、祖母と父を。
5年半前に、下の弟を見送りました。
そのたびに、たくさんのことを学んだ。はずでした。
祖母の時は、人工心肺や胃瘻をつけることについて。拘束具をつけなければならない状況になったときについて。
父の時は、成功率の低い手術に向かう想い。逆に(時にはお医者様の指導に背いても)本人にストレスがかからないことの効能について。
弟の時は、急に倒れて、急に失うこと。そして知らない土地での医療や葬儀について。
だから、上の弟と共に、母本人とも、話をして来たつもりでした。
彼女の意志を尊重した「しまい方」を。そう心がけてきたつもりでした。
でもいざ、「その時」になると、
「本当にこれが一番良い判断だったのか」
そう考えてしまう。
なんなんでしょう。本当に。
それでも「話し合うこと」は大事で、必要な時間だったと、今は心からそう思います。
一時期、話題になり、批判にも晒された「人生会議」。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20191126-OYT1T50277/
「死」を想いながら、きちんと生きる。
むしろそこから目を逸らさないからこそ、前を向いて生きていける。
そう、思います。
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声楽をしていました。歌を愛していた。
ソプラノでしたが、キーン、と尖るのではなく、どんなに高くなっても、ふわり柔らかい、あたたかい声。
クラシックの音楽屋に嫁いだものの、日々の生活に追われ…そんな中、時間をみつけては、私にピアノを教えてくれました。
「好き」を「続ける」ということ。
私はそれを、彼女と、父の姿から、学びつづけてきました。
うまれるまえから。
…ずっと。
ありがとう、おかあさん。
ゆっくり、やすんでね。